豊臣秀吉の側室 淀君(よどぎみ)
織田信長の実妹 戦国一の美女 お市の愛娘
絶世の美女 波瀾万丈の人生
元景寺の淀君伝説
慶長20年(元和元年)(1615年) 5月8日、大阪夏の陣、
豊臣秀吉の側室淀君は大阪城天守閣において自害したとされているが、
群馬県前橋市総社町植野の地にある、元景寺(曹洞宗)には淀君が大阪城落城の時、
助け出され暫くこの寺や近くの城にいたという話がある 。

四百数十年の歴史を伝える 元景寺山門
大阪城では淀君の最期を目撃した者はおらず、遺体も確認されていないという。
淀君も秀頼と同じく逃亡、生存説がある。
秀頼と国松(秀頼と側室伊茶との子)は薩摩へ、
淀君は上野の国(こうずけのくに、現在の群馬県とほぼ同じ)へ逃げ延びたという。
淀君と秀吉にはもう一人実子、鶴松がいたが、山城の淀城にて生誕したが、
三歳で病死又は毒殺されている(秀吉53歳の時)。

元景寺境内の様子
淀君は、
父は近江小谷城主である浅井長政、
母はお市の方(織田信長の妹)との間に生まれた三姉妹(淀君、お初、お江)の長女、
茶々又は菊子と呼ばれていた。兄は万福丸(長政と平井定武の娘との子とする説もある)
戦国時代一の美女といわれたお市の方の
聡明さと美貌を受け継ぎ美人三姉妹であった。
それゆえ後に波瀾万丈の生涯を贈る事にもなった。
|